20120729

午前3時。
深夜にもかかわらず、真夏であるが故に気温は異様に高い夜であった。
(夜中だっていうのに、暑いなぁ…こんなんじゃ、勉強なんて全然はかどらないわよ…)
気だるそうに汗をふき取りながら、大学生の森川みひろは机に課題のノートを放り投げた。
(……暑かったら、冷房つければいいのにね……何、してんだろ。あたし……)

室温を下げて頭の回転を良くしたくない。
暑いままで、頭の沸点をやや上げたまま、余計なことを考えずに勉強に没頭したい。
そんな下らないことをしてでも、彼女には考えたくないことがあった。






ほんの、半日前。

「今更改めて言うのもなんですけど…みはるのこと、よろしくお願いしますね。大島さん」
緊張でガチガチに固まった、大島 橘に、母が優しく声をかける。
「…将来、親子になるっていうのにそんなにガチガチになって、大丈夫なのかい。
こっちは頼りにしてるんだから、もうちょっとどっしりと構えたらどうだい」

若干、寂しそうに嫌味を吐きつつも、観念した、という様子の父。
「は、はい…そうですよね、すいません」

双子の妹、森川みはる。
そのみはるの会社の同僚であり、恋人の大島 橘。
元々、両家の家族公認で交際していた二人であったが。
このたび、めでたくも婚約することになったのであった。
(まぁ……いつかは、この日が来るとは、わかってたんだけど……ね)
冷たい麦茶のおかわりを持ちながら、客室の手前で立ち止まる、みひろ。
妹のお祝いごとは素直に祝福したが、心には黒い霧が立ち込めている気分であった。
(……馬鹿。何考えてるのよ。あたし。諦めなきゃいけないの、
ずっと前からわかってるのに…)


みはると橘が出会う前から、橘に片思いをしていた。
橘はそれを知らず、やがて二人は出会い、彼はみはるに恋をした。
行動は起こしたが、揺るがない彼の心。
そしてみひろの思いを知り、彼のことを気にしつつも遠慮していた、みはる。
そんな妹の背中を押したのは、自分だった。
自分の思い人の相手が他の誰でもない、妹なら、後悔なんてあるはずがない。
そう思って、二人のことを応援することにした。
………はずなのに。

(みはる、同じ双子って言っても、かわいいもんなぁ……
頭からっぽそうで、甘え上手で、ちょこまか動いて、小動物みたいな……
……あたしなんて、無趣味だし。しいて言えば勉強が趣味みたいな感じだし。
プライド高いし気強いし。はっきり言ってかわいくないもん……
……男はみんな、ああいう裏で何も考えてなさそうな、
かわいらしい子が、いいのかな……)


考えてはいけない、と思いつつも、
嫉妬の感情が心の内から次から次へと沸いてきては、止まらない。

みひろは、暑さの気だるさに任せるかのように、机に顔を伏せたまま眠ってしまった。
























「いい加減、起きなさいっ!」

耳元で、母親のけたたましい声が響く。
「うわっ!何よ !?」
「何よじゃないわよ、今何時だと思ってるの!遅刻するわよ!」
いつの間にか朝になってしまったようだ。
窓の外は、まぶしい夏の日の光で照らされている。
「……って、まだ8時じゃない!あたし明け方まで勉強してたんだから、
もうちょっと寝てたって」

「あなたが何勉強するっていうの!学生じゃあるまいし。
早く支度しないと会社に遅れるわよ、みはる!」


………みはる?

今、母は自分のことを、みはると呼んだ?
いくら双子とはいえ、今まで母が自分と妹を間違えたことなど、なかったはず。
みひろは階段を下りてリビングに向かう母を追いかけようと、
振り返って椅子から立ち上がる。

すると、背後にはクッションを枕に、ぐっすりと眠る『自分』の姿があった。
(え !? こ、これ…どうみても、あたしよね… !?
……じゃあ、ま……まさか、みはるって……)

みひろは確認するように、両手を頭にやる。
(髪!髪が……長い !!! なんで !?)
ひっぱってみても、カツラを被されてるわけではなく、地毛である。

(あたし……みはるになっちゃったの―――――― !?)





結局原因はわからず、どうすることもできずに。
みひろは、みはるの姿のまま、為すがままに会社に出勤した。
妹の勤める会社だが、みひろは時々この会社のバイトをしているので
会社の場所や、出勤のノウハウは把握していた。

当たり前だが、誰も気がつかない。
これで正直に「私はみひろです」と言っても、
双子であるが故に冗談で済まされてしまいそうだ。

(でも……橘さんなら、気付いてくれるよね……きっと)
みひろは橘に、昼休みに屋上公園で会おう、とメールで伝えておいた。



屋上公園で待ち合わせした、二人。
今日も真夏の日差しは、容赦なく照らしてくる。
「さすがにここは暑いね。あそこのテラス行こうか」
「あ、あのっ……」
とにかく気付いて欲しい。焦ったみひろが言葉を発そうとすると。
橘はみひろの肩に手をまわした。


20120729b


「!?」
「今日はリボンの色違うんだね。紫色もかわいいね」
いつもみはるが付けている赤いリボンにしようと思ったのだが、
支度を急いでいたせいもあるが、なんとなく手前に置いてあった
紫色のリボンをつけてきていた。

早く真相を話さなければいけないのに、肩に置かれた手、かわいいの一言。
橘の一挙一動に、心臓が飛び出すかと思うほどドキドキして、言葉がまとまらない。
きっと、みはるには日常茶飯事なのだろうが、
今のみひろにとっては幸せ極まりない瞬間であった。


(そうだ……あたしが、みはるってことは……あたしは橘さんの婚約者、なんだ……)

目の前にいるみはるが、みひろであることに、橘は気付かなかった。
恋人である橘なら気付くであろうと思って呼び出したのに、気付かれない。
一刻も早く、この状況を誰かに伝え、元に戻る方法を探さなければいけない。なのに…。

気付かれなかったことに、心のどこかでホッとしている自分に。
みひろは、見て見ぬフリをして、橘との昼休みのひと時を過ごしたのであった。





その後、終業時間まで会社で適当にやり過ごし、帰りは橘に家まで送ってもらった。
みはるならばきっと、なんということはない、普通の一日。
(どうしよう……結局、言えなかった……)
やはり心のどこかで、この状況に幸せを感じてしまっている、自分がいる。
その自分が、誰かに真相を話すことにブレーキをかけている。
(……けど、さすがに、お父さんやお母さんにちゃんと言えば、信じてもらえるよね)
幸せだったひと時もここまで、と意を決して……半ば、諦めのような感情も持ちながら、
みひろは玄関のドアを開けた。

「おかえり。今日も暑かったわねぇ~」
いそいそと、夕飯の支度をしている母。
「ねえ、お母さん。……みひろちゃんは?」
まずは、みはるになりきって、自分の所在を確認しようとする。

「誰のこと?みひろちゃんって」

(………… !?)
母から、耳を疑う言葉が発せられた。
「お友達かしら?今日は誰も来てないわよ」
「な…なに、言ってるの…? み、みひろちゃんは…あたし…の、お姉ちゃんだよ !?」
「もう~、なに冗談言ってるの!うちに娘は二人もいませんよ?
暑いからって、変なこと言わないの!」

母こそ、何の冗談を言っているのか、と思ったが……母の目は本気である。
(ど……どういうこと…… !? 『あたし』が、いなくなっちゃってる…… !?)
おろおろする娘に、若干訝しげな視線を送りつつも、母は思い出したように言葉を続けた。
「あ、そうそう、みはる。来週の日曜日なんだけど。
大島さんと、大島さんのご両親と、会食することになったから。
結婚はまだ先の話だけどね。今からあちらのお家の方とも仲良くしておきたいしね」

「会……食………」
「……ほんと、今更言うのもなんだけど、あなたいい人掴まえたわね。
あんな優しくて、お家もしっかりしてて、イケメンな旦那様。
私もお父さんも、安心してお嫁に出せるわ~」

母親としても鼻が高い、と言わんばかりに小躍りで夕飯を作る、母。
そんな母を呆然と見つめるみひろの、ポケットに入っている携帯が振動する。
当然、元々の『みはる』が所有しているものであるが。


”from:橘くん

 そういえば言い忘れてたけど、来週の日曜日に両家の両親も交えて
 会食することになったよ。なんだか、だんだん本格的になってきたね。
 あたりまえだけど>< これから色々あるかもしれないけど、
 よろしくね、未来の奥さん。”



「奥さん……」
本当に、橘の奥さんになれるとしたら……どんなに幸せなことか。
……いや、なれるのだ。だって自分は今『みはる』なのだから。

(きっと……これ、夢なんだ。勉強に疲れて、都合のいい夢見てるだけなのよ。
……だから、いいよね……目が覚めたら、きっと何もかも、元通りだもん。
……仮に、これが本当だとしても……あたしがいなくても、誰も困らない、し……)


携帯のメールを意味深に見つめ続けた後、みひろはゆっくりと携帯を閉じた。
「なぁに?さっそく大島さんからのメールぅ?」
この幸せ者が~!と言った感じで、ニヤニヤと問いかけてくる母。


「……うん。今言った会食のことだった。日曜日楽しみだね、お母さん」


きっとこれは全て、夢。
そう決め付けて、自分の存在を自ら否定してしまった、みひろ。
既に、誰かに真相を話そうなどとは、思っていなかった。





(つづく)